日本がFSXの計画を進めている中、日本唯一の軍事同盟国であるアメリカ合衆国は、ロナルド・レーガン大統領のもと、ソビエト連邦との対決姿勢を打ち出しており、1981年(昭和56年)の「600隻艦隊構想」、1983年(昭和58年)の「戦略防衛構想(SDI構想:スターウォーズ計画)」などで軍拡競争を挑んだ。また、「欧州においても戦術核を使用した核戦争は起こりうる」と発言し、NATO諸国は改めて自分たちが冷戦の正面に居ることを認識した。
一方、アメリカは日本の置かれた環境や防衛努力が軽いとも感じており、アメリカのみならず西欧諸国からも「西側の一員」としての防衛努力への要求が高まった。1983年(昭和58年)の中曽根康弘首相の「不沈空母」発言や、1985年(昭和60年)の防衛費GNP比1パーセント突破はそれに対する回答でもあったが、他の西側諸国と比較して少なすぎるとの批判は常に付きまとっていた(ただし、防衛費を対GNPで比較するのが公正かといえば必ずしもそうとは言えず、日本が加工貿易国家でGNPが実態より過大になる傾向のある上に税法が違う以上、的外れな主張であることも否めない。一般会計における防衛費比率で言えば、日本の「歳入の10パーセント前後」と言う数字はNATO諸国と大差は無く、GNP比率のような3倍から5倍という数値にはならない。そもそも、防衛費を一概に対GNP比・対GDP比で比較するのは不適切であり、周辺勢力との戦力バランスなど、数多くの要素を勘案して決めるべきである)。
だが、防衛努力への要求が収まらない最大の理由は、この当時の日本経済の「好調」を通り越した「一人勝ち」の状況にあったといえる。アメリカの対日貿易赤字は毎年更新を重ねていたが、日本はなりふり構わず世界中にモノを売っていた。だが、貿易立国である日本はモノを売らない限り国家が維持できない。一方のアメリカは「自由貿易の守護者」であらねばならないという意見が根強いものであった。しかし、日本の商品がハイテク分野にシフトしていくと別の問題が浮上してきていた。
日米貿易摩擦
1982年(昭和57年)の「アメリカのハイテク産業の競争力評価」報告書は、「先端技術産業の成長率は全産業の成長率の二倍であり、すべての技術分野の進歩に貢献するものであり、この分野は国家の安全保障と密接に関連する」とし、ハイテク分野の管理貿易が国益となる場合もあるとしていた。そもそも、レーガン政権の高金利政策がドル高を招いていたのであるが、1985年(昭和60年)の先進五カ国蔵相・中央銀行総裁会議においてドル高是正が合意(プラザ合意)され、各国が協調してドル安への誘導が行われることとなった。それまでの1ドル240円から1ドル120円に円が急騰し、一時的に円高不況も発生したが、アメリカ製品の国際競争力が回復したわけではなかった。これは価格ばかりでなく、アメリカ製品そのものの質が、もはや消費者のニーズと合わない場合が多々あり、それを改善できない結果でもあるのだが、通貨レートが倍になっても赤字が減らない日本への反発ともなった。
「レーガノミックス」という「軍拡による公共投資」による財政赤字拡大と、国内消費過多による貿易赤字の累積という、いわゆる「双子の赤字」、投資ブームと言う不健全なマネーゲームに加え、システムとして頂点に達しつつあったMAD(相互確証破壊)による核戦争の恐怖は、時代の狂気ともいえる空気の中で、アメリカ国内の経済学者にさえ「暴挙」「無法者の所業」と批判されたスーパー301条発動をちらつかせるアメリカと、それに抵抗する日本(報復関税措置のほとんどは後に撤回させている)との恫喝合戦へと向かっていく。
バイオ ハノイ サイト宇宙 セット リーテール たましぎ みたか ニューロ れっど ファンタ アカシデ ひびき ちゅう フォルテ ターミ アイテム セルラ ハイブリ バロッ ファザ 紫キャベツ ライフ ナビキュー 仲よし ネリネ ピープ モデル 龍馬太鼓 きんさ ダウン スリル シームレス スピーチ ドクゼ オフィス ナビデモ スルー シアトル マツム ルーム リアクター デイキ ロースラ モトロ オブジ サンタ マキシ リボソーム デパチ クンミン
このように、経済面では1985年(昭和60年)に対日制裁法案が可決される状況であったが、日米同盟の軍事面においては共和党が政権を担当していることもあり、上院・下院のヒステリックさとは縁遠かった。1986年(昭和61年)4月には、来日したワインバーガー国防長官が改めて「FSX選定は日本が決定すべきこと」である旨の発言がなされている。これはある意味当然のことで、F-15のペーパープラン以外に対艦ミサイル4発を搭載する戦闘機などアメリカは考えたことは無く[4]、対艦ミサイル4発搭載という運用要求そのものは、航空自衛隊のオペレーションリサーチの結果弾き出された数字で、これはソビエト侵攻の際に保有機で乾坤一擲の対艦攻撃を行った際に、日本版オケアン演習を再現するための欠くべからざる要素であった。
対艦ミサイル4発搭載が出来ない場合、支援戦闘機隊の定数増加や新編、配備基地そのものの新設など自衛隊という組織自体をいじる必要があり、それをアメリカが指図するなどあり得ないといえる。経済問題としての貿易赤字削減と、アメリカ製品である戦闘機の購入と、相互運用性から米国製戦闘機を改造母体とせよとの要求は、時にリンクしながらも別個のものであり、当然それぞれの比重は違うといえる。たしかに総額1兆円というFSXプロジェクトは無視できない規模ではあるが、1985年(昭和60年)に米国際経済研究所の行った「日本が貿易障壁を完全撤廃すれば世界の対日輸出は年間220億ドル増加する」との試算からも判る通り、貿易赤字を兵器の輸出で取り戻そうという考え自体が幼稚なものであり、レーガン政権においては1987年(昭和62年)に東芝機械ココム違反事件が起きようと、国内企業や労組に支援された下院議員が何を叫ぼうと、米国製戦闘機の輸入や改造無しのライセンス生産を(日本から言い出すよう誘導は行ったが)公式の要求とすることはなかった。
だが、そんな「ロン・ヤス」関係がベースにあったFSXは、1989年(平成元年)にブッシュ大統領に政権が交代すると、凄まじい対日圧力に晒されることとなる。
米議会による外圧
日本の防衛庁が輸入推進派と国産推進派に割れていたように、アメリカもまた一枚岩ではなかった。日本の防衛庁とアメリカ国防総省・アメリカ国務省の信頼の厚さは、「我々ペンタゴンは、日本との相互信頼に基づいて戦後の防衛協力体制を築いてきた。だから、防衛庁との間には100パーセントの信頼関係がある」(アーミテージ国防次官補、当時)という発言からも見て取れるが、日本人でも面映くなるくらい(理解しづらいほど)であるものの、これらの政府機関の共通の「敵」というものは、時代が変わろうと対象が変化しようと常に「共通」であり、戦後一貫して防衛体制を築いてきた。
だが、一方でアメリカ商務省と日本の通商産業省(現在の経済産業省)、外務省は恐ろしく仲が悪い。商務省の相手する日本の諸機関は、「スーパー301条」発動を避けようと、ありとあらゆる方法で抵抗するタフ・ネゴシエイターであり、何度も苦汁を舐めさせられていた。その商務省は1988年(昭和63年)9月に「国防総省が外国と軍事機器の共同生産の契約を行う際には、商務省が情報提供を受け、勧告を出し、国防総省はそれらを考慮する」権限を与えられていたが、商務省は日本のFSXに関して情報提供を受けてはいなかった。
貿易赤字という経済問題と安全保障を切り離して考える国防省・国務省の考え方は、商務省・通商代表部からすれば「アマチュア」でしかなく、500億ドルを超える貿易赤字をかぶせる日本が、戦闘機の完成品の輸入を行わずに技術移転を受けると言うのは、彼らの思考の埒外でしかなかった。ここに至って「前政権が承認した国家間の安全保障に関わる国際共同計画を、経済問題を盾に商務省が潰しにかかる」という前代未聞の事態が発生することになる。
1989年(平成元年)2月2日に竹下登総理大臣は、1月に新政権として発足したブッシュ大統領からワシントンD.C.に招かれており、日米安保の重要性とともに、米国のFSX計画への協力が高らかに謳いあげられるはずであった。ところが、それは当日の朝に有力上院議員12名の連名でホワイトハウスに届けられたFSX計画に反対する書簡のために無かったことにされた。2月14日には超党派の24議員が、政府がF-16の対日技術供与の承認を求めた場合、不承認の決議案を出して対抗する、という内容の書簡を大統領に送った。ブッシュ大統領は3月10日を回答期限として政府部内に再検討会議を設け、3月20日にようやく「共同開発の前進」を決定する。ただし以下のような付帯事項が付けられていた。
F-16のソース・コードの供与を制約する
生産段階での米国の仕事分担率は最大限に確保を目指す
日本からの技術を必ず提供するとの保証を設ける
3月20日より日米間で「日米合意内容の明確化」と呼ばれる作業が開始された。口が裂けても「見直し」「再検討」という言葉が使えない状況での選択であった。4月28日にブッシュ大統領の特別声明が出されたが、その内容は客観的に見て、一方的にアメリカ側が有利なものとなっている。具体的に示すと、最後まで問題を引きずった生産段階でのアメリカ側ワークシェアが「総生産額の約40パーセント」と明記されたほか、技術移転の面においても「日本側は、アメリカ側が入手することを希望するすべての技術を、すでに合意された手続きにしたがってアメリカ側に移転する」となっていた。
自民党内部から「不平等条約」との声があがったのはこのときである。そもそも開発能力が対等でない以上、不平等になることは、やむをえないという見方もあるが、日本が独自に築いてきた特殊技術を無条件に提供し、米国がF-16の核心を「ブラックボックス」化することを許される取り決めは、特に共同開発でも日本の主体性を確立することを望んでいた国産推進派にとって、敗北感を味わわせるものであり、FSXに関する不満が至るところで噴出した。日米マスコミも「ジャパン・バッシング」関連の話題として、様々に報道しあった。
一方、実務者レベルにおいては未だに「FSX潰し」への必死の抵抗が続いていた。ブッシュ大統領の特別声明(議会通告)に対し、反FSX陣営はエンジン技術の対日供与を差し止める条件を付帯した修正案を上院に提出し、5月16日これを可決させた。共同開発そのものは上院、下院双方で否決されない限り自然承認の見込みであったため、日本のFSXの死命を制するエンジン技術の供与は核心的な問題となった。ブッシュ大統領による初めての拒否権は、この対日エンジン技術供与反対に対して発動されが、この拒否権は修正決議案に2/3以上の賛成があれば覆るとなっていた(オーバーライド)。6月1日に共同開発計画は自然承認され、ブッシュ政権は「F-16対日技術供与許可証(LTAA)」を発行した。「エンジン技術供与を認めない」と言う条件付き共同開発に対する上院での評決は9月13日に行われ、66対34という1票差で否決、対日エンジン技術供与が決定された。エンジンは石川島播磨重工業(現・IHI)によってライセンス生産されることとなった。