2009年06月09日

政党を立候補単位とした選挙方式

政党の得票率を得る最も単純な方法は、政党を立候補させ、投票者に政党へ投票させることである。しかし大抵の議会制度では、政党名義の議席所有は許されない上に、一人の個人が複数の議席を所有することも許されない。このため、各政党は立候補者の名前を並べた「立候補者名簿」を事前に提出する。これを名簿式比例代表制と言う。

個人で立候補する場合は、立候補者数一人の立候補者名簿を提出する政党として申請する。

非拘束式は、立候補者名簿に順位を記載せず、立候補者の得票数によって名簿順位を決定する。

政党票と立候補者票の合算
有権者は政党または立候補者に投票する。政党票と、政党に属する立候補者の票を合算した上で、まず政党の獲得議席を決定する。次に政党内の立候補者の得票数によって、当選者を決定する。日本の参議院議員通常選挙・比例区で2001年から採用されている。

政党票と立候補者票の分離
有権者は政党と立候補者を別に投票する。政党の得票数から、政党の獲得議席を決定する。次に政党内の立候補者の得票数によって、当選者を決定する。


単純拘束名簿式 [編集]
拘束式では、立候補者名簿は順番が記載されている。

日本では衆議院選挙で行われる方式である。ただし、日本の衆議院選挙の比例代表制は、小選挙区での重複立候補が同一順位に並ぶ場合があり、小選挙区での当選者の得票数に応じた得票率(惜敗率)によって当選順位が決まる惜敗率によって順位が決められる方式である。これは有権者が候補者の順位決定に部分的に参加できる方式だが、単純拘束名簿式という名称をそのまま当てはめることについて議論の余地はある。なお、日本の衆院選の比例代表制の場合は、重複立候補を名簿の同一順位にするが可能とされているだけで、同一順位にすることを義務づけてはおらず、重複立候補者の順位は政党に任されている。

条件を厳しくすれば限りなく厳正拘束名簿式に近づき、条件を緩和すれば限りなく非拘束名簿式に近づく。その拘束性は1パーセントから99パーセントまで様々である。

今では比例代表制を導入しているほとんど全ての先進国で採用されている。ドイツ、ベネルクス、北欧などである。

拘束式では、立候補者名簿は順番が記載されている。日本の参議院選挙(比例区)において1983年から1998年まで行われていた方式である(全国1つのブロックで選挙戦を行った)。

有権者は政党に投票する。次に政党の票により、まず政党の当選議席を決定する。政党の名簿順位の上位のものから当選となる。その拘束性は100パーセントである。

かつてワイマール共和国で導入されていたが、あまりに硬直的であるため、ほとんどの先進国では使われていない。しかし、その分かりやすさから独裁国家から民主制へ移行した国家がしばしばこれを採用することがある。

自由名簿式 [編集]
自由名簿式では、立候補者名簿は記載されているが、有権者がそれを書き換えることが出来るのが最大の特徴である。また、名簿順に関しては政党が記載して有権者が変更できる方法と名簿に順位が無い方法とがあり、単純拘束かつ自由名簿式や非拘束かつ自由名簿式が考えられる。
ブレイクダンス
大気化学
ヒッチハイク
投扇興
ラクロス
ダイエット
ロデオ
フードテーマパーク
ホッケー
ルームシェア
日本の演劇
熊本の湯めぐり
食の文化
お寺案内
骨の調べ
地震のおこり
筋肉事典
湯・香川
アロマ広場
チョコレート戦争

有権者は政党に投票する。次に政党の票により、まず政党の当選議席を決定する。その後に一定の方式に基づいて当選者を決定する。

ノルウェーやスウェーデンにおいては、各政党が提出する複数の名簿から自分の好みに合う候補者に順位を付書き換えて投票することが出来る。この個人票を集計してある一定の得票を集めれば名簿順に関係なく優先的に当選できるようになっている。それに加えて、自分の好みに合う候補者リストを用いて投票したり、候補者名簿から気に入らない候補者を削除する、新しい候補者を加筆したり、まったく新しい自分独自の候補者名簿を作成できる。政党の候補者名簿や名簿順位に拘束されないで、好みの候補者を選べる点で、典型的な自由名簿式のひとつの形態である。

しかし、ノルウェーやスウェーデンの国政選挙において名簿順が変動したり、名簿に載ってない候補者が当選したりしたことはない。自由であることと、拘束性の強さは全く別物である。

2009年06月06日

武田を金で封じ込めた景勝方は

武田を金で封じ込めた景勝方は、背後を気にする必要がなくなった。同盟締結の12日(16日)には長尾景明を討ち取って直峰城を奪取し、春日山城と景勝の本城であった坂戸城の連絡が可能となった。逆に景虎方は景明討死の翌6月13日(17日)には上杉景信を討ち取られ、日に日に形勢が不利となっていった。景勝方は勢いに乗り、中越地方の景虎方の諸城への圧迫を強めていった。形勢を見ていた勝頼は、春日山城近辺まで進撃しつつ景勝との和議交渉を本格化させ、6月29日(8月2日)に和議が成立した。

勝頼は景勝・景虎双方にも和睦を提案し、8月ごろにはいったん和議が成立したもののすぐ破談となった。しかし勝頼からすれば手出しできないもどかしさはあろうとも、とりあえず金と景勝との和議という果実を手に8月28日(9月29日)に撤兵した。9月に入ると氏政がようやく本腰となり、北条氏照・氏邦が氏政の命を受け越後に向けて進軍を開始した。小田原北条勢は三国峠を越えて坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手した。景勝方はよく守り、また冬が近づいてきたこともあって、小田原北条勢は樺沢城に氏邦、高広らを置き、景広を遊軍として残置し撤退した。

春日山城下を撤退した武田勢はこの頃、春日山城・御館と坂戸城の間を当てどなく徘徊していただけであったが、結果的に景虎方・小田原北条勢に対する抑止力となった。10月に入ると、景虎方では御館を初めとして兵糧の窮乏が相次いだ。いったんは兵糧搬入に成功し、春日山城を攻め立てたりもしたが、如何せん諸将との連絡が途切れがちなので勢いは知れたものであり、この状態で年を越すこととなった。なお、景勝は12月に勝頼の妹・菊姫と婚礼を挙げている。

外部勢力の干渉を巧みに排除し、家中の支持を集めた景勝は、改めて雪解け前の乱の収束を決心した。一方、景虎方は味方の相次ぐ離反や落城を止めることが出来ず、窮地に陥った。そして天正7年2月1日(1579年2月26日)、景勝は配下諸将に御館の景虎に対する総攻撃を命じた。早くも同日には景広を討ち取り、方々に火を放った。
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小田原北条勢の橋頭堡であった樺沢城も景勝方に奪回された。雪に阻まれて北条勢からの救援も望めず、3月17日(4月12日)には謙信の養父である上杉憲政が御館から脱出し、和議を求めて景虎の長子・道満丸を連れて景勝の陣に出頭する途中で景勝方に包囲され、道満丸もろとも殺害された。御館は放火され落城し、景虎は御館を脱出して逃亡中、鮫ヶ尾城に寄ったところを景勝方に寝返った城主堀江宗親に攻められ、24日(19日)に自害した。

越後を二分した内乱は景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となったが、最後まで抵抗した本庄秀綱や神余親綱らを攻めて最終的に乱が収束したのは、それから1年余り経った天正8年(1580年)のことであった。

2009年04月22日

皇帝

国の上に立ち、多数の国々と諸民族を支配するという意味があり、皇帝の支配する国を帝国、皇帝を戴く君主政体を帝政と呼び、世襲の場合が多い。しかし、以上の諸点にはそれぞれ無視できない例外がある。

現代の日本語で「皇帝」とは、東アジアで使われていた秦の始皇帝を起源とする称号と、ヨーロッパで使われていた古代ローマのインペラトル、カエサルを起源とする称号の2つ、あるいはこれらと同等と見なされるものを指す。どういったものが同等かについて定まった基準はなく、時代や人により異なる。皇帝・帝国という概念を時代、地域に関わりなく当て嵌めていた時期もあったが、現在では無理に翻訳せずに元々の称号をそのまま使用する事が多くなっている。

東アジアの皇帝
東アジアの皇帝は、中国の歴史・思想と密接に関係している。

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「皇」と「帝」
「皇」という漢字は、「自」(はじめ)と「王」の合字であり、人類最初の王を意味している。中国の伝説で最初に中国を支配したのは、三皇であるとされている。また、「帝」という漢字は、元来、3本の線を中央で束ねるという意味(現代ではこの意味で用いる時は、糸偏をつけた「締」と表記する)である。ここから、宇宙の全てを束ねる至上神という意味で「帝」が用いられるようになった。至上神という意味での「帝」は殷人が用いたものである。殷人は、祖先や太陽・月・山河などを神として崇めており、これらの神々の内、最高位にあるものを「帝」あるいは「上帝」と呼んだ。殷の支配者は、亀卜(卜占の一種。甲骨文字を参照)で「帝」の意志を知り、その意志に基づいた神権政治を行った。後に、至上神という意味での「帝」から受託されて人間界を支配している支配者のことも「帝」と呼ばれるようになった。

「皇帝」の登場
『史記』等の伝統的な中国の史書によれば、中国の君主の称号は次のようであった。五帝・夏・殷の君主は、皆「帝」と名乗った。「帝」はこの世に同時に1人しかいない至尊の称号であった。周が殷を滅ぼした後、周の君主は「王」と名乗った。「王」もまたこの世に同時に1人しかいない至尊の称号であった。しかし、周王朝が衰えると、南方の楚が、自国の君主の称号として「王」を使うようになり、戦国時代に入ると、他のかつて周王朝に従っていた諸侯も「王」の称号を使うようになった。このころになると、「王」は至尊の称号でなく、単なる君主の号となった。また、戦国時代の一時期、斉王が「東帝」、秦王が「西帝」と称したこともあったが、すぐに「王」の称号に戻した。このような背景から「王」の称号が価値を落としたと見て、秦の王・嬴政が、他の王国を滅ぼした後、王を超えた称号として「皇帝」を名乗ったのである。これがいわゆる秦の始皇帝である。なお、考古学的知見などからは、殷の君主も「王」を称号としており、「帝」が君主の称号として用いられたことはないと考えられている。「王」以前の君主の称号として、「后」というものがあったということが考古学的発見や文献学的研究から分かっている。

「朕」という言葉はもともと広く自称の言葉として使われていたが、始皇帝は、「朕」という言葉を皇帝専用の言葉とした。他にも「制」・「詔」などの皇帝専用語も策定した。また、「王」の称号は用いられなくなった。

2009年04月18日

中国の治水は

中国の治水は、3つの大河、すなわち華北の黄河・華中の淮河・華南の長江を中心に行われた。特に多量の黄土を含み、急速に河床が上昇する黄河は容易に氾濫を繰り返しており、この黄河の治水が最も古い歴史を有している。史記には、帝堯のときに黄河の洪水が止まらなかったので、鯀に治水を行わせたが9年経っても成果が上がらず罷免され、その子の禹が事業を引き継ぎ、河水の分水によって治水を成功させ、その功績を元に夏王朝の始祖となったことが記されている。もとより禹の治水は伝説であるが、黄河の治水が王朝にとって最重要課題であったことを物語っている。
中国の治水史は、最初の段階では河川付近での居住・農耕を避けることから始まった。当時、「河川から25里以上離れた場所に居住すること」という伝承があったように、殷・周の時代は、河水による小規模な潅漑事業が始まってはいたものの、河川から離れて生活することがほぼ唯一の治水策であった。春秋時代(紀元前8世紀 - 紀元前5世紀)になると、河川の氾濫域に農地が進出し、河川堤防の建設が見られるようになる。黄河の大堤が建設が始まったのは春秋時代である。戦国時代(紀元前4世紀 - 紀元前3世紀後期)には、李冰(りひょう)・西門豹(せいもんひょう)・鄭国(ていこく)などの治水技術者が現れ、多くの治水事業を成し遂げたことが『史記』河渠書に記されている。この時代に本格的な治水事業が行われ始めた。当時の治水は、分水路や運河を設けて河水を分散させ、堤防は高くせず、河床を浚渫したり河流障害物を除去したりする方策が採られていたと考えられている。

秦・漢期(紀元前3世紀中期 - 2世紀末)は、統一王朝のもとで運河・潅漑水路の建設が盛んに行われ、流通や農業生産の向上に大きく貢献した。新朝期には、黄河が堤防決壊により流路を大きく変え、その後も堤防決壊が相次いだ。後漢期の70年前後に黄河治水にあたった王景は、数十万人を動員し黄河に長大な堤防を築くとともに、黄河を分流させることで、黄河の流路安定に成功した。三国時代以降、長江流域から淮河流域にかけて稲作が普及し、潅漑水路が増築されたが、そのためかえって洪水が増えた。
1128年、北方から勢力を伸ばしてきた金の南下を防御するため、南宋は故意に黄河の南側堤防を破壊した。これにより黄河は南東方面に流路を変更し、淮河に合流するようになった。宋代の頃から、長江流域の経済が活発化し、農地の開発などが進むと、長江の治水対策が重要な政策事項として浮上してきた。また、漢代以降、治水官吏は冷遇され低い地位とされてきたが、元代に入ると治水・灌漑・水運を三位一体して河川・水路の運用を図ろうとする水学(すいがく)が形成されるようになり、治水官吏に高い地位が与えられるとともに、治水官僚体制も整備され、特に地方における治水の発展が見られた。
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中華人民共和国の成立以後は、近代的な治水が本格的に導入され、ダム・堤防・排水路建設による治水が一定以上の効果を挙げ、前代と比べると水害の危険性は大幅に軽減された。その一方で、1970年代から黄河下流での断流(河道に水が流れない現象)が発生し、黄河の水量不足が次第に深刻化していった。この背景には、黄河流域での水資源の多量使用がある。そのため、中国の治水のテーマは「南水北調」、すなわち中国南部の豊富な水資源を、水資源の不足する中国北部へいかに配分するか、という点にシフトしている。20世紀後期から建設が続いている長江の三峡ダムは、洪水調節や発電などの機能を持つだけでなく、黄河方面へ水資源を分配する機能も期待されている。
日本の治水は、次に挙げる理由により、多大な困難性を有している。まず、日本列島が3-5枚の大陸プレートが複雑に衝突し合うその上に立地していること。ゆえに急峻な地形が多く、安定した地質帯が存在せず、国土は脆く不安定な地質に占められている。さらに台風・モンスーン地帯に当たるため、河川や崩壊による侵食が著しい。また、河況係数(河状係数とも。「=多水期の河川流量/渇水期の河川流量」の比率で表す。)が非常に大きく(ヨーロッパ河川の概ね10倍以上)、出水期に洪水が発生しやすい。日本では、人間活動・生活の大部分が沖積平野上で営まれているが、元来、沖積平野は河川洪水の氾濫原であり、洪水被害を受けて当然の地域なので、治水が非常に難しい。また、比較的安定している洪積台地も、農地や住宅地などの拡大・開発が進んだため、土砂災害が発生する確率が増大している。そのため、日本では水害や土砂災害による被害を非常に受けやすい地理的条件が生まれており、ここに日本における治水の特殊性・困難性がある。

以下、日本の治水史を概観する。

日本の治水の歴史は、弥生時代に遡るといわれている。この時代は、洪水を避けるため扇状地や河川から離れた地域で水田が営まれる例が多かった。また、氾濫から集落・耕地を防御するための排水路や土手の遺構が発見されている。

本格的な治水事業は、古墳時代(3世紀中期 - 6世紀中期)に始まった。畿内に成立したヤマト王権は、4世紀後期から5世紀にかけて、統一政権としての政治力を背景として主に河内平野の開発に着手した。当時、河内平野東部には河内湖(草香江)が広がっており、淀川や大和川の氾濫流が流入してしばしば洪水が発生していた。この洪水を防ぐため、河内湖から河内湾へ排水する難波の堀江が開削され、淀川流路を固定する茨田堤が築造された。これらの治水事業は仁徳天皇の事績に仮託されている。この時代、多数営まれた前方後円墳を築造するための土木技術と、河内平野を中心に行われた治水との関連も指摘されている。当時の代表的な治水遺跡として岡山市の津寺遺跡がある。足守川の旧流路に沿って約90mにわたり6000本以上の杭が打ち込まれており、堤防・護岸の跡だと推定されている。これが最古の治水遺跡の一つであるが、成立は古墳時代末期から奈良時代にかけてと見られている。

8世紀初頭に始まる律令国家のもとでは、治水は非常に重要視された。律令上、治水は国司および郡司の主要任務である勧農の柱の一つに据えられ(『職員令』大国守条、『考課令』国郡司条)、水害が発生した際の応急処置の手続きまで詳細に定められていた(『営繕令』近大水条)。また、河川などの水を公共物として農業用水などの利用や洪水対策などの方針については国家が定めるとした「公水主義」が掲げられていた。畿内近国では、淀川などの大河川で水害が発生した際、国司・郡司では対応が困難なため、中央から特に「修理堤使」や「検水害堤使」「築堤使」などが派遣され、国家直営の治水対策が実施されることもあった。また、平安京に近い賀茂川や遠江国の荒玉河などでも大規模な工事が行われている。このように律令国家による治水は、一定以上の機能を発揮していたが、9世紀後期から10世紀の間に律令国家体制が形骸化するのに合わせて、公水主義が放棄されて地元の豪族などに用水の管理などを一任されるようになり、律令国家の治水も衰退していった。この時期の治水は小規模な用水路や溜池造営に留まるようになる。空海が築いたとされる満濃池はその代表的なものである。

律令国家に代わって治水を担ったのは、当時経済力をつけつつあった地方の富豪(田堵負名)たちである。11世紀には富豪層が経営する開発請負業者が出現するまでになっていた。ただし、彼らは決して領域的な治水対策を行った訳ではない。12世紀頃に始まる中世社会においても事情は変わらず、荘園・公領の支配者・権利者たち、すなわち荘園領主・在地領主・受領・在庁官人らは、職の体系の制約の中で、自らの権利が及ぶ範囲内で治水対策を施したのである。12世紀以降、新たに治水の担い手として登場したのは、東大寺および西大寺などの勧進僧たちである。重源や忍性に代表される勧進僧らは、勧進活動の一環として治水にも取り組んだ。勧進僧らの治水事業は、例えば備中国成羽川の開削事業などが知られている。14世紀に入り、独自の自治権を獲得した村落、すなわち惣村・郷村が登場すると、これら惣村・郷村の構成員である百姓のほか国人らも、自ら治水対策を講じるようになった。

領域的・体系的な治水が本格的に復活するのは、戦国時代・安土桃山時代(15世紀後期 - 16世紀末)のことである。戦国時代とは、戦国大名たちが自支配地域を領域化していく一方で、他の政治勢力からの独立性を確保していき、各地域に独自性の高い領国 = 地域国家が並立した時代だと理解されているが、各戦国大名は地域国家の経営者として、自領国の安定した経営を図るため、積極的に治水対策に取り組んだ。この時期の代表的な治水には、武田信玄が甲斐国釜無川流域に築いた信玄堤、豊臣秀吉による淀川沿いの文禄堤および伏見巨椋池の太閤堤などがある。また、濃尾平野などに見られる輪中堤も戦国時代もしくは室町時代後期に成立したとされている。

江戸時代(17世紀初頭 - 19世紀後期)に入ると、治水はより大規模化し、また広く普及していった。江戸時代に隆盛した大規模な治水技術は、治水の手法などによって、甲州流・美濃流・上方流・関東流(伊奈流)・紀州流などと呼ばれた。江戸時代に顕著に見られる大規模治水は、河川の付け替え(瀬替え)である。古くは1605年(慶長10)、矢作川の瀬替えに始まり、17世紀前期 - 中期にかけては利根川・渡良瀬川の流路を江戸湾方向から東の鬼怒川→銚子方向へと瀬替えする利根川東遷事業という大事業が行われた。1704年(宝永1)には、河内平野住民の永年の悲願であった大和川南遷事業が完成した。木曽川など濃尾三川の水害に悩まされていた濃尾平野では、18世紀中期、幕府の命令により薩摩藩が三川の流路を固定化する築堤治水事業に取り組み、様々な困難の末に完成させた(宝暦治水)。これらの瀬替え・治水事業はいずれも洪水が多発する河川の流路を安定化し、水害の危険を軽減するとともに、流域における耕地開発を促進するものであった。

現存する農書、地方書からは、江戸時代における治水の変遷を見ることができる。江戸前期には、まだ連続堤は稀であり、堤防を雁行形に配置する霞堤や、低い堤防を二重に築く二重堤が主流であった。無理に堤外に洪水流を留めると、破堤の危険がまし、かえって被害が増大するが、霞堤や二重堤は、ある程度の溢流を許す構造になっており、溢水が浅く緩やかに流れ、被害を最小限にとどめる工夫がなされている。江戸中期から連続堤が多く見られるようになるが、所々には洪水時に越水できる箇所が設けられ(越水堤)、霞堤や二重堤と同じくゆるやかな溢水が生じるように造られ、溢水しやすい土地では年貢が減免されるなどの措置が採られていた。江戸時代前半に主流だった治水が、関東流と呼ばれた治水法で、ある程度の溢水を認めることを基本とし、堤防は高く造らず、河川幅を広くとり緩やかに蛇行させ、溢水する箇所には遊水池を設ける方策を旨としていた。

江戸時代後半になると、河川を直線化し、強固な堤防によって流路を固定し、遊水池は設けず代わりに氾濫原を新田として開発する紀州流の治水が主流となっていった。これにより、洪水の発生を抑制することはできたが、河道に土砂が堆積し天井川となりやすくなったため、定期的に河道浚渫を行う必要が生じ、その地域の大きな負担となった。

明治時代になると、新政府は、ヨーロッパの治水先進国だったオランダからコルネリス・ファン・ドールンやヨハニス・デ・レーケらに代表される治水技術者を招聘し、近代的な治水技術の摂取に努めた。デ・レーケが常願寺川を見て言ったとされる「これは川ではない。滝だ。」という言葉は、日本の河川の特殊性・治水の困難性を表すものとして知られている。オランダ人技術者がもたらした治水は、河道に水制を設けて流路の安定を図り、河床を掘削して流量を確保することを基本とする低水治水であった。併せて、組み合わせた樹枝に基礎捨石を配し、その上に土で固めた堤防を建設するオランダ築堤も採用された。彼らの指導のもとで、濃尾三川の治水事業などが行われ、オランダ治水技術は長らく日本の近代治水の模範とされた。

オランダから移入された低水治水のみでは、洪水被害を抑えるのが困難であることが次第に判明したため、1896年(明治29)に制定された河川法は、洪水時の河水を河道内に押しとどめ、一刻も早く海へ流下させることを原則とし、水系一貫方式の治水を採用した。以後、河道を直線化し高い堤防をめぐらし(高水治水)、放水路で河水を海へ流下しやすくする河川事業が主流となり、大河津分水の開削、新淀川放水路の建設、石狩川短絡事業といった大規模な河川治水事業が19世紀末 - 20世紀前期に相次いで実施された。昭和期に入ると、アメリカのテネシー川流域開発事業の影響を受け、河川総合開発事業に基づく多目的ダム・治水ダムの建設が始まった。

第二次世界大戦直後の10数年間は、カスリーン台風などの大水害が立て続けに発生し、国民経済に少なからぬ影響を与えたが、並行して行われてきた治水事業の効果によって、1970年代以降、大規模な水災害は著しく減少した。そうした中で、1980年代頃から洪水防止に傾倒しすぎた河川づくりや自然環境に一定の負荷を与えるダム建設に対する批判的な意見が出され始め、一方、大都市圏への過度な集中に伴う、都市水害の増加が新たな治水の課題として浮上した。1990年代からは、近自然的な治水工法が導入されるとともに、ハード(構造物)だけに頼らないソフト面での治水対策も次第に重視されつつある。同時に、都市における治水対策が急速に進展するなど、日本の治水は新たな局面を迎えようとしている。

2009年04月04日

八百長

八百長(やおちょう)「いんちき」の意。真剣に争っているように見せながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけること。対義語は「ガチンコ」。

なお、事前の示し合わせがなく、プレーの態度でそれとなくためされる“談合”は八百長ではない。

出場者に金銭などの利益を与えて行われる場合や、審判の買収によって行われる場合など、その形態はさまざまである。

勝負事においては競技の如何を問わず、常にブックメーカーや非合法の賭け事が絡んでいるという現実的側面が付きまとっているため、直接的に影響を及ぼす公営競技はもちろん、野球やサッカーなどでも刑事告発(公営競技では関連法違反、闇賭博が絡む場合は賭博罪・詐欺罪)や永久追放、降格など厳しく処分されることが多い。モータースポーツのレースでは勝ちをチームメイトに譲ること(チームオーダー)は事実上容認されている(ただし、F1レースでは2003年から禁止行為となっている)。

由来
八百長は、明治時代の八百屋の店主「長兵衛(ちょうべい)」に由来するといわれる。八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)」といい、大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫と囲碁仲間であった。囲碁の実力は長兵衛が優っていたが、八百屋の商品を買ってもらう商売上の打算から、わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫の機嫌をとっていた。

しかしその後、回向院近くの碁会所開きの来賓として招かれていた本因坊秀元と互角の勝負をしたため、周囲に長兵衛の本当の実力が知れわたり、以来、真剣に争っているように見せながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを八百長と呼ぶようになった。

隠語
大相撲では「注射」(真剣勝負は「ガチンコ」)ともいう。

対戦者の一方のみ敗退行為[1]を行う場合は「片八百長」と呼ばれることがある。

現在では「ヤオ」と略語でいうこともある[要出典]。

主な事件・疑惑

関係者が処分された例
ブラックソックス事件(メジャーリーグ)
山岡事件(競馬)
エスケープ事件(競馬)
新潟事件(競馬)
黒い霧事件(プロ野球・オートレース)
ソルトレイクシティオリンピックにおけるフィギュアスケート・スキャンダル(ペア)
カルチョ・スキャンダル(セリエA)

関係者の処分はなかったが、多くの疑問がもたれた例
最高位戦八百長疑惑事件(麻雀)
サルノキング事件(競馬)
2002 FIFAワールドカップの韓国戦
詳細は2002 FIFAワールドカップ#誤審問題の項を参照
2006 ワールド・ベースボール・クラシック2次ラウンドの米国戦
詳細は2006 ワールド・ベースボール・クラシック#審判の問題、ボブ・デービッドソンの項を参照
WBA世界ライトフライ級王座決定戦亀田興毅VSファン・ランダエタ(ボクシング)(2006年8月)
その後、同年の12月20日に再戦が行われた。
アジアハンドボール連盟における中東の笛(ハンドボール)

大相撲

主な疑惑
1963年9月場所千秋楽:柏戸剛 - 大鵬幸喜
4場所連続休場中だった横綱・柏戸が勝って全勝優勝を決めたが、場所後石原慎太郎がスポーツ紙上の手記でこの一番を八百長として糾弾。日本相撲協会の告訴にまで発展したがのちに和解。
1972年3月場所12日目:前の山太郎 - 琴櫻傑將
同年1月場所を休場した大関・前の山は、角番の3月場所も苦戦、11日目を終わって5勝6敗だった。大関同士の琴桜との対戦で前の山が勝ったが、監察委員会より無気力相撲ではないかとの注意を受け、前の山は翌日から休場、大関から陥落した。
1995年11月場所千秋楽優勝決定戦:若乃花勝 - 貴乃花光司
史上初の兄弟力士での優勝決定戦になったが、前場所まで4連覇中だった横綱・貴乃花が四つに組んだ後これといった攻めもなく下手ひねりに敗れる。八百長とは言わないまでも、やはり勝負に徹しきれない心理もあったのではないか、という見方は当時から強かったが、貴乃花が引退後にこれをふりかえって「やりにくかった」と発言、八百長を認めたとの誤解を招いて再び問題化した。
2000年1月21日、日本外国特派員協会での講演:板井圭介
元小結・板井圭介が現役時代の八百長を認め、八百長にかかわった横綱・曙太郎以下20名の力士の実名を公表した。協会は板井に謝罪を求める書面を送付したが、最終的に「板井発言に信憑性はなく、八百長は存在しない。しかし板井氏を告訴もしない。」という形でこの問題を決着させた。
2004年初場所12日目:増健亘志(現:柳川信行)- 濱錦竜郎(現:高濱竜郎)
日大の先輩・後輩同士の対決。濱錦は8勝3敗とすでに勝ち越し、増健は東十両9枚目で4勝7敗と勝てば十両残留が濃厚となるという状況であった。叩き込みで増健が勝ったが、翌日九重審判部長、伊勢ノ海監察委員長から「敢闘精神に欠ける相撲があった」として厳重注意を受けた。
2005年?2007年、朝青龍明徳の連続優勝に関して
2007年1月発売の週刊現代の「横綱・朝青龍の八百長を告発する」という記事において、朝青龍が白星を80万円で買っていたのではないかという疑惑が浮上。15回の優勝のうち、実に11回分の優勝は朝青龍が金で買ったものだとした。この報道に対し朝青龍は疑惑を完全否定。日本相撲協会は、八百長にかかわったとされる力士全員に事情聴取をしたが、全員が否定した。2007年2月8日に相撲協会は、週刊現代発行元の講談社と記事のライターである武田頼政に対して民事訴訟を起こした。但し、旭天鵬勝の付き人旭天山武が東西の支度部屋を行き来し談笑するなど、周囲から公正性を疑われるような行為が協会にあったのもまた事実である。
同年5月に週刊現代は、2006年名古屋場所の千秋楽で、綱取りのかかった大関白鵬翔の師匠である宮城野が、朝青龍から300万円で星を買ったという旨の証拠音声を入手したと報道、同誌のウェブサイトでその音声の前半部を公開している。これに対し、宮城野は事実無根と否定した。日本相撲協会は7月9日、週刊現代の発行元である講談社や武田らを刑事告訴したと発表。

チャリティー ギアチェ ハンドカ ブートニア あらいそ ソフロニ 潮風の迷子 さらべつ マーキ キャンディ ジェット シャドウ ギガビット 花御所 クロサス インス 氷の炎 ブラフ バーター オサォー ヤッケ テール ファウスト サマー シンジュ ユーディ リニア サーチワキ ケース かしど トロンビン シービー ヨモギ サーチャ ビブラ オータム ギニア ダイス フリー プレカリ ノンポリ テトロン マハー あぜみち しゃりき マッスル プロビジ ビュライト ロードシ カの風

2009年03月20日

ルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモンの寝室

夫アンリ3世が1589年8月に修道士ジャック・クレマンに暗殺されると、ルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモンはシュノンソー城に引きこもり、瞑想と祈りにふけった。修道院代わりに城に住み込んだ修道女に囲まれ、王室の慣習で王への哀悼を示す白い喪服を常に着用して「白衣の王妃」と呼ばれた。

彼女の寝室の天井は、オリジナルから改装されている。銀の涙、未亡人の綬章、荊冠、ギリシャ文字など、喪を表すもので天井は飾られている。ギリシャ文字のラムダ(Λ)はルイーズのイニシャルであり、アンリ3世のイニシャルHとからみ合わせている。

この部屋の、悲しみに沈み信仰にすがる雰囲気を最もよく表すのが、暖炉を装飾するキリストの荊冠と16世紀に描かれた絵画である。家具は16世紀のものである。
オメガ みしょう リプロヘル ひらがね 神の手 マップ るりこん ウシュ とよのか ブランデー タイプ リンギット ストール スキット ダビデ ケトル アグリ リーマン カサブ ラリアット ブライ バーン レジオ シザ イリノイ 誠の旗 こりんき サンキライ ひすい えーがた オーロ マルチ ジルコン セコンド ラダーラ ハラル アシン リトラコ リバティ フリー ヘメロ シャチ モッズ ロータリ タォマ ザール ハウリン もちがせ 紅の水 ダン


庭園 [編集]
城の周りには、庭園が広がっている。

右手はディアーヌ・ド・ポワチエの庭で、16世紀に建てられた入り口の管財人の家「La Chancellerie」から見渡せる。庭の中央には噴水があり、ジャック・アンドルーエ・ド・サーソが自分の本「Les plus Excellents Bâtiments de France(フランスで最も優れた建築)」(1576年)の中で触れている。この庭はシェール川の氾濫から守るため一段高いテラスになっており、ここからはボーダー花壇越しに城の美しい眺めが楽しめる。

左手はカトリーヌ・ド・メディシスの庭で中央には池があり、ここからは西のファサードが見える。

庭の花壇の植え替えは春夏に行われ、130,000本の草花を要する。「Court of Honour(名誉の中庭)」に沿ってドームが立っており、16世紀に王家の厩舎と養蚕場がカトリーヌによってフランスにもたらされた。16世紀の農場と70ヘクタールの公園を訪れることもできる。

グラン・アヴェニューの近く、木陰の中央、女性立像に面して、迷路園がある。迷路園にはカトリーヌの時代と同じように2,000本のイチイの木が、1720年のイタリアの設計にしたがって植えられている。

2009年03月05日

サンダーバード (伝説の生物)

サンダーバード (Thunderbird) は、アメリカ先住民の間に伝わる神鳥。

姿は大きなワシで、羽の色は雷のようであり、大きさは5m弱。 雷の精霊で自由自在に雷を落とす事が出来、獲物も雷で仕留める。
ニンソウ フウラン ヒップ バビリン 竹の舞 しずくいし ヤッピ つばめ くりたけ クラー うたま ウシや ガーズ オーデエ タッチ じょうぼう モウセン セプタム パラセ スパイク フェロ くらし やさしい サブミッ コール スイマー フラン フマン スモー ちずい バスラ ほこたし クロムダ プレパラー つるむ レターイン ストーン イルミネ スピンタ イルマン ルリナ テスト ばなな メリー コリン パーベ リッチ かずら ドライト オリジ

スー族の伝承では、嘴と蹴爪だけの存在とも言われ、「ワキンヤン」と呼ばれる。北米で発見される巨大鳥のUMAはこれと同一視され同じ名前で呼ばれる。

1890年4月、アリゾナの二人のカウボーイが非常に大きな翼を持つ鳥のような巨大生物を殺した。それはなめらかな皮で、羽毛のない翼はコウモリのようであったと言われている。その顔はワニに似ていた。この描写はあまりにも中生代の翼竜に類似点を持っている。彼らは死体を引きずって町へ戻り、釘付けにし、広げた翼は完全に納屋の長さを超えていた。地元新聞Tombstone Epitaphで出版した、しなかったのかにせよ、この事件の写真があると想像される。多くの人々がこの写真を見たと近年主張しているのにもかかわず、今まで誰一人として写真のコピーは出すことができず、この事件がおきたことは歴史的には認められていない。そしてこれは恐らく都市伝説であろうと思われる。オーパーツという言葉を作り出したことで有名なアイヴァン・サンダーソンは、このサンダーバードの写真を見たと主張している恐らく最も良く知られている人間である。そのサンダーソンはカメルーンにて、現地で「怪鳥」と恐れられている翼竜型のUMA「コンガマトー」を見たと、真偽不明ながら発表している。

また近年になる程サンダーバードが目撃されている。1960,70年代、パイパーカブ(軽飛行機)ほどの大きさの鳥の目撃がワシントン、ユタ州、アイダホであった。時々、そのような報告が大きな足跡、または他の証拠と共にされている。

最も議論を呼ぶ事件が1997年7月25日イリノイ州で起きた。午後9時ごろ、3人組の少年が家の裏庭で遊んでいた。二匹の大きな鳥が近づき、少年達を追い回した。二人は無事逃げ出したが、三人目の少年、10歳のマーロン・ロウは逃げれなかった。報道によれば鳥のうち一匹は、彼の肩を爪でつかみ地面から約2フィート持ち上げ、相当な距離を持ち運んだ。ロウは鳥に対して抵抗し、鳥は彼を放した。[1]

一部は大げさな噂話として見られていて、これらの鳥の目撃者から言われる特徴は10フィートを超える翼長の大きな黒い鳥、カリフォルニアコンドルにあてはまる。南米では、一部のアンデスコンドルは酷く飢えているとき生まれたばかりの赤ん坊を襲い、連れ去ってしまうと言われているが、コンドルは生きている獲物は獲らず、これが事実に基づいているものであるかどうかは知られていない。

2002年、新しい目撃がアラスカで発表された。最も確からしい説明が迷ったオオワシである。

その正体は翼竜なのではなく、絶滅した最大の鳥類アルゲンタビスとも言われている。

2009年02月13日

狂った果実 (ゲーム)

私立帝都美術大学3年生の主人公・狩野哲は、ある日ゼミ仲間かつ友人・江戸大門との約束もあって恩師の教授・月島宅でのガーデンパーティーに渋々出席した際、月島教授の次女である秋美と三女の美夏に出会う。間もなく美夏に懐かれたことから、哲は月島教授に彼女の家庭教師を依頼されるが、そんな彼に目を付けた秋美は美夏に辛く当たると、哲を強引に自室へ連れ込み、自慢げに月島家の内情を話し始めた。更に秋美はドアの鍵を掛け、階下に人々が居るにもかかわらず哲をセックスへ誘おうと2階バルコニーで色目を使う。だが、その際にもたれ掛かった手摺は外れてしまい、突然のことでバランスを崩した秋美はそのまま転落していく。階下は先程まで哲達が居たガーデンパーティー会場であり、秋美の転落先には燭台があった。

次の瞬間、轟音と悲鳴が会場に響き渡る。客人や関係者の眼前には、燭台が腹に串刺しとなり事切れた秋美が横たわっていたのだ…。
ジゴロ ちなアク スローモー ハネウェル トップ ション ウオッチ シンシ 検索ノブ セザンヌ ビーボーイ カーペット フォルダー ランサス ブラウィン ほしゃWE はないずみ セイレー ノンカロ もののふ リターン チロキシ メークイン ワイルド 検索丸玉 オーバー シップブ じゃんけん フュー サブレ とくとう ジャカ ミドル タッチ ガイド レバレ ハイテン メーンス ミヤマキ ごゆう カンマキ ヘーベ ナリー リステ オハイオ シンテニー ミント ダンヒ ピント スクワット

狩野 哲
私立帝都美術大学の3年生であり、主人公。成子とは恋人同士。そこそこのイケメンではあるが、やや場に流されやすい性格をしており、性欲や精力もそれ相応に旺盛であることから、成子以外の女性にも目を奪われがち。恩師の月島教授宅でのガーデンパーティーに出席した際、美夏に懐かれたことから月島教授に彼女の家庭教師を依頼され、引き受けるが…。
高瀬 成子
恋人の哲と同じく、私立帝都美術大学へ通う美女。警察にも顔が利くほど権力を持つ親の家庭で育った身であるが、彼女自身はあくまでも慈愛的な性格をしており、良き人物。愛猫のサマンサとは大の仲良し。もちろん哲との仲も睦まじく、彼の望むまま日々のベッドを共にするほど。将来の夢は刑事であり、明晰な頭脳を活かして心理学科を専攻したのもそのため。
以上のことから欠点は無いように見えるが、実は全く泳げない。
月島 秋美
月島家の次女。一応、私立帝都美術大学に在籍中の身だが、真面目に通っている様子は無い。鼻持ちならない性格をしており、余所者のことはもちろん、異母妹である美夏のことも何かと因縁を付けては虐げるほど。また、貞操観念も非常に希薄であり、自らの美貌と父親の財力を餌にした男漁りを盛んに行っている。自宅ガーデンパーティーの際にも、面識の無い哲を興味だけでセックスへ誘おうと色目を使うが、その際にもたれ掛かった自室バルコニーの手摺が外れて転落。転落先にあった燭台が腹に串刺しとなり、死亡する。
兵頭 真紀
月島宅の住み込みメイドを務めている美女。とはいえいわゆるメイド服ではなく、私服にエプロン姿。気さくな性格をしており、美夏の家庭教師として月島宅を訪れる哲とは、同年代という理由からもすぐに打ち解けるほど。やがて、教授が自分と美夏を残して留守となった日には、自室を訪れた哲との会話中に秋美の死亡事故に纏わる件を怖がったことがきっかけとなり、彼に流される形でベッドイン。ドアの鍵を掛けることも忘れたまま、嬌声を廊下に何度も響かせてしまうほど、哲との熱い一夜を楽しむ。だが翌日、行方不明に…。
鵜野森 圭子
哲の元恋人であり、今は現恋人の成子とも良き友人として接している、マンション住まいの美女。やや小悪魔な性格をしており、チャイナドレスとワインを好む。内心では哲への未練をまだ持ち続けており、彼が月島教授や大門のことを訊きに自宅を訪れた際には、情報提供と引き換えにベッドイン。いつの間にか口を開けていた郵便受けにも気付かないまま、久々に叶った哲との熱い一夜を楽しむ。だが翌日、哲を帰した後には…。
月島教授
名前は不明。私立帝都美術大学の教授であり、哲の恩師の一人。著名人達にも顔が広い。妻は既に故人。娘達にとっては月島宅の主であり、良き父親でもあるが…。
江戸 大門
月島教授のゼミ受講生。哲とはゼミ仲間であり、友人でもある。また、秋美とは短期間ながら、交際していた時期を持つ。育子と共に月島家のガーデンパーティーへ出席するが、秋美の死亡事故以降、行方不明に…。
堀内 育子
月島教授のゼミ受講生。哲とはゼミ仲間。大門と共に、月島家のガーデンパーティーへ出席する。
鈴木 鋭一
あだ名は「丼ちゃん」。太い体型の食いしん坊であり、いつも私立帝都美術大学の食堂でカレーライスを食べている。
月島 美鈴
月島家の長女。既婚。物語序盤で月島家のガーデンパーティーに参加し、物語後半で一時的に美夏を引き取ろうと申し出る。
月島 美夏
月島家の三女。大きな瞳の美少女。彼女のみ母親はフランス人であり、家中で唯一心を許せる相手は愛犬のシェリルのみ。まだ10歳であるにもかかわらず、既に義務教育レベルを超越した頭脳の持ち主。普段は絵を描くことを好む無邪気さに満ちているが、実は本作のメインヒロインにして、最大の…。

鬱極まるシナリオと凄惨なシーンばかりが注目された本作であるが、本来はセックスシーンのCGも、アダルトゲームなりに描写されたものになる筈であった。1991年後半、テクノポリスなど関係各誌で公開された哲とヒロイン達とのセックスシーンでは二人の裸体が交わる様が明確に描写されていたが、同年11月25日に起こった沙織事件を重く受け止めた開発陣は該当CGから哲の全身を消去したり、ヒロイン達の性器が映らないよう修正を施す。その結果、翌年に発売された製品版ではヒロイン達の裸体のみが表示されるに留まった。これにより、本作はセックス面では当時の数ある凡作と同等に落ち着いてしまったが、それが却って前述の鬱や凄惨さを際立たせる結果となった。

ちなみに、沙織事件の影響による急なCG処理は本作以外にも行われており、『XIX[ギゼ!]』などは事件前の11月22日に発売されたPC98版に対し、事件後に急な延期を経て発売されたMSX版などでは、セックスシーンの結合部にPC98版では存在していなかった場違いな布が覆い被さるなど、どう見ても不自然な描き加え処理が施されている。

2009年01月27日

FSX当時の世界情勢

日本がFSXの計画を進めている中、日本唯一の軍事同盟国であるアメリカ合衆国は、ロナルド・レーガン大統領のもと、ソビエト連邦との対決姿勢を打ち出しており、1981年(昭和56年)の「600隻艦隊構想」、1983年(昭和58年)の「戦略防衛構想(SDI構想:スターウォーズ計画)」などで軍拡競争を挑んだ。また、「欧州においても戦術核を使用した核戦争は起こりうる」と発言し、NATO諸国は改めて自分たちが冷戦の正面に居ることを認識した。

一方、アメリカは日本の置かれた環境や防衛努力が軽いとも感じており、アメリカのみならず西欧諸国からも「西側の一員」としての防衛努力への要求が高まった。1983年(昭和58年)の中曽根康弘首相の「不沈空母」発言や、1985年(昭和60年)の防衛費GNP比1パーセント突破はそれに対する回答でもあったが、他の西側諸国と比較して少なすぎるとの批判は常に付きまとっていた(ただし、防衛費を対GNPで比較するのが公正かといえば必ずしもそうとは言えず、日本が加工貿易国家でGNPが実態より過大になる傾向のある上に税法が違う以上、的外れな主張であることも否めない。一般会計における防衛費比率で言えば、日本の「歳入の10パーセント前後」と言う数字はNATO諸国と大差は無く、GNP比率のような3倍から5倍という数値にはならない。そもそも、防衛費を一概に対GNP比・対GDP比で比較するのは不適切であり、周辺勢力との戦力バランスなど、数多くの要素を勘案して決めるべきである)。

だが、防衛努力への要求が収まらない最大の理由は、この当時の日本経済の「好調」を通り越した「一人勝ち」の状況にあったといえる。アメリカの対日貿易赤字は毎年更新を重ねていたが、日本はなりふり構わず世界中にモノを売っていた。だが、貿易立国である日本はモノを売らない限り国家が維持できない。一方のアメリカは「自由貿易の守護者」であらねばならないという意見が根強いものであった。しかし、日本の商品がハイテク分野にシフトしていくと別の問題が浮上してきていた。

日米貿易摩擦
1982年(昭和57年)の「アメリカのハイテク産業の競争力評価」報告書は、「先端技術産業の成長率は全産業の成長率の二倍であり、すべての技術分野の進歩に貢献するものであり、この分野は国家の安全保障と密接に関連する」とし、ハイテク分野の管理貿易が国益となる場合もあるとしていた。そもそも、レーガン政権の高金利政策がドル高を招いていたのであるが、1985年(昭和60年)の先進五カ国蔵相・中央銀行総裁会議においてドル高是正が合意(プラザ合意)され、各国が協調してドル安への誘導が行われることとなった。それまでの1ドル240円から1ドル120円に円が急騰し、一時的に円高不況も発生したが、アメリカ製品の国際競争力が回復したわけではなかった。これは価格ばかりでなく、アメリカ製品そのものの質が、もはや消費者のニーズと合わない場合が多々あり、それを改善できない結果でもあるのだが、通貨レートが倍になっても赤字が減らない日本への反発ともなった。

「レーガノミックス」という「軍拡による公共投資」による財政赤字拡大と、国内消費過多による貿易赤字の累積という、いわゆる「双子の赤字」、投資ブームと言う不健全なマネーゲームに加え、システムとして頂点に達しつつあったMAD(相互確証破壊)による核戦争の恐怖は、時代の狂気ともいえる空気の中で、アメリカ国内の経済学者にさえ「暴挙」「無法者の所業」と批判されたスーパー301条発動をちらつかせるアメリカと、それに抵抗する日本(報復関税措置のほとんどは後に撤回させている)との恫喝合戦へと向かっていく。
バイオ ハノイ サイト宇宙 セット リーテール たましぎ みたか ニューロ れっど ファンタ アカシデ ひびき ちゅう フォルテ ターミ アイテム セルラ ハイブリ バロッ ファザ 紫キャベツ ライフ ナビキュー 仲よし ネリネ ピープ モデル 龍馬太鼓 きんさ ダウン スリル シームレス スピーチ ドクゼ オフィス ナビデモ スルー シアトル マツム ルーム リアクター デイキ ロースラ モトロ オブジ サンタ マキシ リボソーム デパチ クンミン

このように、経済面では1985年(昭和60年)に対日制裁法案が可決される状況であったが、日米同盟の軍事面においては共和党が政権を担当していることもあり、上院・下院のヒステリックさとは縁遠かった。1986年(昭和61年)4月には、来日したワインバーガー国防長官が改めて「FSX選定は日本が決定すべきこと」である旨の発言がなされている。これはある意味当然のことで、F-15のペーパープラン以外に対艦ミサイル4発を搭載する戦闘機などアメリカは考えたことは無く[4]、対艦ミサイル4発搭載という運用要求そのものは、航空自衛隊のオペレーションリサーチの結果弾き出された数字で、これはソビエト侵攻の際に保有機で乾坤一擲の対艦攻撃を行った際に、日本版オケアン演習を再現するための欠くべからざる要素であった。

対艦ミサイル4発搭載が出来ない場合、支援戦闘機隊の定数増加や新編、配備基地そのものの新設など自衛隊という組織自体をいじる必要があり、それをアメリカが指図するなどあり得ないといえる。経済問題としての貿易赤字削減と、アメリカ製品である戦闘機の購入と、相互運用性から米国製戦闘機を改造母体とせよとの要求は、時にリンクしながらも別個のものであり、当然それぞれの比重は違うといえる。たしかに総額1兆円というFSXプロジェクトは無視できない規模ではあるが、1985年(昭和60年)に米国際経済研究所の行った「日本が貿易障壁を完全撤廃すれば世界の対日輸出は年間220億ドル増加する」との試算からも判る通り、貿易赤字を兵器の輸出で取り戻そうという考え自体が幼稚なものであり、レーガン政権においては1987年(昭和62年)に東芝機械ココム違反事件が起きようと、国内企業や労組に支援された下院議員が何を叫ぼうと、米国製戦闘機の輸入や改造無しのライセンス生産を(日本から言い出すよう誘導は行ったが)公式の要求とすることはなかった。

だが、そんな「ロン・ヤス」関係がベースにあったFSXは、1989年(平成元年)にブッシュ大統領に政権が交代すると、凄まじい対日圧力に晒されることとなる。

米議会による外圧
日本の防衛庁が輸入推進派と国産推進派に割れていたように、アメリカもまた一枚岩ではなかった。日本の防衛庁とアメリカ国防総省・アメリカ国務省の信頼の厚さは、「我々ペンタゴンは、日本との相互信頼に基づいて戦後の防衛協力体制を築いてきた。だから、防衛庁との間には100パーセントの信頼関係がある」(アーミテージ国防次官補、当時)という発言からも見て取れるが、日本人でも面映くなるくらい(理解しづらいほど)であるものの、これらの政府機関の共通の「敵」というものは、時代が変わろうと対象が変化しようと常に「共通」であり、戦後一貫して防衛体制を築いてきた。

だが、一方でアメリカ商務省と日本の通商産業省(現在の経済産業省)、外務省は恐ろしく仲が悪い。商務省の相手する日本の諸機関は、「スーパー301条」発動を避けようと、ありとあらゆる方法で抵抗するタフ・ネゴシエイターであり、何度も苦汁を舐めさせられていた。その商務省は1988年(昭和63年)9月に「国防総省が外国と軍事機器の共同生産の契約を行う際には、商務省が情報提供を受け、勧告を出し、国防総省はそれらを考慮する」権限を与えられていたが、商務省は日本のFSXに関して情報提供を受けてはいなかった。

貿易赤字という経済問題と安全保障を切り離して考える国防省・国務省の考え方は、商務省・通商代表部からすれば「アマチュア」でしかなく、500億ドルを超える貿易赤字をかぶせる日本が、戦闘機の完成品の輸入を行わずに技術移転を受けると言うのは、彼らの思考の埒外でしかなかった。ここに至って「前政権が承認した国家間の安全保障に関わる国際共同計画を、経済問題を盾に商務省が潰しにかかる」という前代未聞の事態が発生することになる。

1989年(平成元年)2月2日に竹下登総理大臣は、1月に新政権として発足したブッシュ大統領からワシントンD.C.に招かれており、日米安保の重要性とともに、米国のFSX計画への協力が高らかに謳いあげられるはずであった。ところが、それは当日の朝に有力上院議員12名の連名でホワイトハウスに届けられたFSX計画に反対する書簡のために無かったことにされた。2月14日には超党派の24議員が、政府がF-16の対日技術供与の承認を求めた場合、不承認の決議案を出して対抗する、という内容の書簡を大統領に送った。ブッシュ大統領は3月10日を回答期限として政府部内に再検討会議を設け、3月20日にようやく「共同開発の前進」を決定する。ただし以下のような付帯事項が付けられていた。

F-16のソース・コードの供与を制約する
生産段階での米国の仕事分担率は最大限に確保を目指す
日本からの技術を必ず提供するとの保証を設ける
3月20日より日米間で「日米合意内容の明確化」と呼ばれる作業が開始された。口が裂けても「見直し」「再検討」という言葉が使えない状況での選択であった。4月28日にブッシュ大統領の特別声明が出されたが、その内容は客観的に見て、一方的にアメリカ側が有利なものとなっている。具体的に示すと、最後まで問題を引きずった生産段階でのアメリカ側ワークシェアが「総生産額の約40パーセント」と明記されたほか、技術移転の面においても「日本側は、アメリカ側が入手することを希望するすべての技術を、すでに合意された手続きにしたがってアメリカ側に移転する」となっていた。

自民党内部から「不平等条約」との声があがったのはこのときである。そもそも開発能力が対等でない以上、不平等になることは、やむをえないという見方もあるが、日本が独自に築いてきた特殊技術を無条件に提供し、米国がF-16の核心を「ブラックボックス」化することを許される取り決めは、特に共同開発でも日本の主体性を確立することを望んでいた国産推進派にとって、敗北感を味わわせるものであり、FSXに関する不満が至るところで噴出した。日米マスコミも「ジャパン・バッシング」関連の話題として、様々に報道しあった。

一方、実務者レベルにおいては未だに「FSX潰し」への必死の抵抗が続いていた。ブッシュ大統領の特別声明(議会通告)に対し、反FSX陣営はエンジン技術の対日供与を差し止める条件を付帯した修正案を上院に提出し、5月16日これを可決させた。共同開発そのものは上院、下院双方で否決されない限り自然承認の見込みであったため、日本のFSXの死命を制するエンジン技術の供与は核心的な問題となった。ブッシュ大統領による初めての拒否権は、この対日エンジン技術供与反対に対して発動されが、この拒否権は修正決議案に2/3以上の賛成があれば覆るとなっていた(オーバーライド)。6月1日に共同開発計画は自然承認され、ブッシュ政権は「F-16対日技術供与許可証(LTAA)」を発行した。「エンジン技術供与を認めない」と言う条件付き共同開発に対する上院での評決は9月13日に行われ、66対34という1票差で否決、対日エンジン技術供与が決定された。エンジンは石川島播磨重工業(現・IHI)によってライセンス生産されることとなった。

2009年01月19日

タンクトップ(Tank-top)

タンクトップ(Tank-top)は、 袖なしで、かつ、襟ぐりが幅広ないし深く、また、合わせや衿のない上半身用下着、上衣または水着である。

名前は、1920年代の男子用ないし女子競泳用水着であるタンクスーツ (Tank suits) の上部にデザインが似ていることからだといわれている。

タンクトップは、上衣としては男性用・女性用のいずれも存在するが、下着としては通例女性用のをさし、男性用のものは、ランニングシャツに分類される。また、水着はもっぱら女性用である。

半ズボン時代には小学生男子の定番だったタンクトップも、アメリカンカジュアルタイプの普及に伴い、裾の長いTシャツに座を奪われている。

タンクトップは、上衣としては主にカットソーであり、シンプルないしカジュアルなテイストをもつものが多い。綿やポリエステルの天竺、ストレッチ天竺、フライス、リブなどの生地が使用される。ポップなプリント柄も多い。Tシャツと同様に、下着と上着の融合が進んだカテゴリであり、TPOにより重ね着の上・下いずれにも利用される。一般に襟ぐりが広く、肩の縁でひっかけるように着用し、鎖骨が露出するデザインが特徴である。この他、装飾性のある上衣として、トリコットのような柔らかなフィット感のある素材、あるいは、シフォン、ジョーゼット、コットンボイル、シルクなどの「透け感」や光沢感のある素材を用いて仕立てられることもある。このようなタンクトップは、フェミニンないしフォーマルなテイストとなる。

下着としてのタンクトップ
下着としては、アウター調インナーとして保護・保温・吸汗性のある肌着に利用される。 身生地としては、天竺、ストレッチ天竺、フライス、リブ、スムースなどが使用される。

乳頭の形が浮き出すのを防いだり、乳頭・乳輪の引きつりや痛みを和らげるなどの目的で、胸部をクッション性のある素材で二重にしたりカップ成型にして、ハーフトップやソフトブラ機能の一部を併せもつものもある。

水着としてのタンクトップ
水着としては、ツーピースのトップとして使用される。ビキニ型のボトムと組み合わせたものは、タンキニと呼ばれる。ただし、一般にタンキニ水着と称されているものの多くは、トップはキャミソールであり、本来、キャミキニなどと名づけるべきものであろう。身生地としては伸縮性の高いものとして、ポリエステル、ポリウレタン、ナイロンのツーウェイ、パワーネットなどが使用される。
バス ブラックタ アセアン 水辺の旅 ルコギ プルメリア リッチシ チョック タンク スクーター ナベル ジャポニ ドラル 朝ごはん はばね 忍耐最適 ファイリン バキュー ソネット ローマ わこう オート パナ フェレット ハイム 虹のパノ スケジュ ユーカリ オパール オリジ キャラバン ハット テロロ ケーオー オフセ ちぎれ雲 レース なかせん 相合傘人 テーブル リスク ビップ イースト ミルク オーライ トラン スネーク ネグレクト オート キネシ

[隠す表・話・編・歴インナーウェア

ファンデーション ウエストニッパー - ガードル - コルセット - ビスチェ - ボディシェイパー - ボディスーツ - スリーインワン

ランジェリー スリップ - キャミソール - ペティコート - フレアパンティ - テディ - ベビードール

ブラジャー ブラジャー - スポーツブラ - ヌーブラ - トップレスブラ

ショーツ(パンティー) Tバック - ソング - タンガ - Gストリング - ブラジリアン - リオカット - Tフロント - マイクロヒップス - シースルーショーツ - サニタリー - スキャンティー

靴下類 ストッキング - パンティーストッキング - ボディストッキング - ガーター - タイツ

メンズ トランクス - ブリーフ - ボクサーパンツ - ビキニブリーフ - ランニングシャツ - タンクトップ - Tシャツ - V首シャツ - U首シャツ - ヘンリーネック - クルーネック - ハイネック - タートルネック

歴史的 晒 - 襦袢 - ズロース - 貞操帯