中国の治水は、3つの大河、すなわち華北の黄河・華中の淮河・華南の長江を中心に行われた。特に多量の黄土を含み、急速に河床が上昇する黄河は容易に氾濫を繰り返しており、この黄河の治水が最も古い歴史を有している。史記には、帝堯のときに黄河の洪水が止まらなかったので、鯀に治水を行わせたが9年経っても成果が上がらず罷免され、その子の禹が事業を引き継ぎ、河水の分水によって治水を成功させ、その功績を元に夏王朝の始祖となったことが記されている。もとより禹の治水は伝説であるが、黄河の治水が王朝にとって最重要課題であったことを物語っている。
中国の治水史は、最初の段階では河川付近での居住・農耕を避けることから始まった。当時、「河川から25里以上離れた場所に居住すること」という伝承があったように、殷・周の時代は、河水による小規模な潅漑事業が始まってはいたものの、河川から離れて生活することがほぼ唯一の治水策であった。春秋時代(紀元前8世紀 - 紀元前5世紀)になると、河川の氾濫域に農地が進出し、河川堤防の建設が見られるようになる。黄河の大堤が建設が始まったのは春秋時代である。戦国時代(紀元前4世紀 - 紀元前3世紀後期)には、李冰(りひょう)・西門豹(せいもんひょう)・鄭国(ていこく)などの治水技術者が現れ、多くの治水事業を成し遂げたことが『史記』河渠書に記されている。この時代に本格的な治水事業が行われ始めた。当時の治水は、分水路や運河を設けて河水を分散させ、堤防は高くせず、河床を浚渫したり河流障害物を除去したりする方策が採られていたと考えられている。
秦・漢期(紀元前3世紀中期 - 2世紀末)は、統一王朝のもとで運河・潅漑水路の建設が盛んに行われ、流通や農業生産の向上に大きく貢献した。新朝期には、黄河が堤防決壊により流路を大きく変え、その後も堤防決壊が相次いだ。後漢期の70年前後に黄河治水にあたった王景は、数十万人を動員し黄河に長大な堤防を築くとともに、黄河を分流させることで、黄河の流路安定に成功した。三国時代以降、長江流域から淮河流域にかけて稲作が普及し、潅漑水路が増築されたが、そのためかえって洪水が増えた。
1128年、北方から勢力を伸ばしてきた金の南下を防御するため、南宋は故意に黄河の南側堤防を破壊した。これにより黄河は南東方面に流路を変更し、淮河に合流するようになった。宋代の頃から、長江流域の経済が活発化し、農地の開発などが進むと、長江の治水対策が重要な政策事項として浮上してきた。また、漢代以降、治水官吏は冷遇され低い地位とされてきたが、元代に入ると治水・灌漑・水運を三位一体して河川・水路の運用を図ろうとする水学(すいがく)が形成されるようになり、治水官吏に高い地位が与えられるとともに、治水官僚体制も整備され、特に地方における治水の発展が見られた。
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中華人民共和国の成立以後は、近代的な治水が本格的に導入され、ダム・堤防・排水路建設による治水が一定以上の効果を挙げ、前代と比べると水害の危険性は大幅に軽減された。その一方で、1970年代から黄河下流での断流(河道に水が流れない現象)が発生し、黄河の水量不足が次第に深刻化していった。この背景には、黄河流域での水資源の多量使用がある。そのため、中国の治水のテーマは「南水北調」、すなわち中国南部の豊富な水資源を、水資源の不足する中国北部へいかに配分するか、という点にシフトしている。20世紀後期から建設が続いている長江の三峡ダムは、洪水調節や発電などの機能を持つだけでなく、黄河方面へ水資源を分配する機能も期待されている。
日本の治水は、次に挙げる理由により、多大な困難性を有している。まず、日本列島が3-5枚の大陸プレートが複雑に衝突し合うその上に立地していること。ゆえに急峻な地形が多く、安定した地質帯が存在せず、国土は脆く不安定な地質に占められている。さらに台風・モンスーン地帯に当たるため、河川や崩壊による侵食が著しい。また、河況係数(河状係数とも。「=多水期の河川流量/渇水期の河川流量」の比率で表す。)が非常に大きく(ヨーロッパ河川の概ね10倍以上)、出水期に洪水が発生しやすい。日本では、人間活動・生活の大部分が沖積平野上で営まれているが、元来、沖積平野は河川洪水の氾濫原であり、洪水被害を受けて当然の地域なので、治水が非常に難しい。また、比較的安定している洪積台地も、農地や住宅地などの拡大・開発が進んだため、土砂災害が発生する確率が増大している。そのため、日本では水害や土砂災害による被害を非常に受けやすい地理的条件が生まれており、ここに日本における治水の特殊性・困難性がある。
以下、日本の治水史を概観する。
日本の治水の歴史は、弥生時代に遡るといわれている。この時代は、洪水を避けるため扇状地や河川から離れた地域で水田が営まれる例が多かった。また、氾濫から集落・耕地を防御するための排水路や土手の遺構が発見されている。
本格的な治水事業は、古墳時代(3世紀中期 - 6世紀中期)に始まった。畿内に成立したヤマト王権は、4世紀後期から5世紀にかけて、統一政権としての政治力を背景として主に河内平野の開発に着手した。当時、河内平野東部には河内湖(草香江)が広がっており、淀川や大和川の氾濫流が流入してしばしば洪水が発生していた。この洪水を防ぐため、河内湖から河内湾へ排水する難波の堀江が開削され、淀川流路を固定する茨田堤が築造された。これらの治水事業は仁徳天皇の事績に仮託されている。この時代、多数営まれた前方後円墳を築造するための土木技術と、河内平野を中心に行われた治水との関連も指摘されている。当時の代表的な治水遺跡として岡山市の津寺遺跡がある。足守川の旧流路に沿って約90mにわたり6000本以上の杭が打ち込まれており、堤防・護岸の跡だと推定されている。これが最古の治水遺跡の一つであるが、成立は古墳時代末期から奈良時代にかけてと見られている。
8世紀初頭に始まる律令国家のもとでは、治水は非常に重要視された。律令上、治水は国司および郡司の主要任務である勧農の柱の一つに据えられ(『職員令』大国守条、『考課令』国郡司条)、水害が発生した際の応急処置の手続きまで詳細に定められていた(『営繕令』近大水条)。また、河川などの水を公共物として農業用水などの利用や洪水対策などの方針については国家が定めるとした「公水主義」が掲げられていた。畿内近国では、淀川などの大河川で水害が発生した際、国司・郡司では対応が困難なため、中央から特に「修理堤使」や「検水害堤使」「築堤使」などが派遣され、国家直営の治水対策が実施されることもあった。また、平安京に近い賀茂川や遠江国の荒玉河などでも大規模な工事が行われている。このように律令国家による治水は、一定以上の機能を発揮していたが、9世紀後期から10世紀の間に律令国家体制が形骸化するのに合わせて、公水主義が放棄されて地元の豪族などに用水の管理などを一任されるようになり、律令国家の治水も衰退していった。この時期の治水は小規模な用水路や溜池造営に留まるようになる。空海が築いたとされる満濃池はその代表的なものである。
律令国家に代わって治水を担ったのは、当時経済力をつけつつあった地方の富豪(田堵負名)たちである。11世紀には富豪層が経営する開発請負業者が出現するまでになっていた。ただし、彼らは決して領域的な治水対策を行った訳ではない。12世紀頃に始まる中世社会においても事情は変わらず、荘園・公領の支配者・権利者たち、すなわち荘園領主・在地領主・受領・在庁官人らは、職の体系の制約の中で、自らの権利が及ぶ範囲内で治水対策を施したのである。12世紀以降、新たに治水の担い手として登場したのは、東大寺および西大寺などの勧進僧たちである。重源や忍性に代表される勧進僧らは、勧進活動の一環として治水にも取り組んだ。勧進僧らの治水事業は、例えば備中国成羽川の開削事業などが知られている。14世紀に入り、独自の自治権を獲得した村落、すなわち惣村・郷村が登場すると、これら惣村・郷村の構成員である百姓のほか国人らも、自ら治水対策を講じるようになった。
領域的・体系的な治水が本格的に復活するのは、戦国時代・安土桃山時代(15世紀後期 - 16世紀末)のことである。戦国時代とは、戦国大名たちが自支配地域を領域化していく一方で、他の政治勢力からの独立性を確保していき、各地域に独自性の高い領国 = 地域国家が並立した時代だと理解されているが、各戦国大名は地域国家の経営者として、自領国の安定した経営を図るため、積極的に治水対策に取り組んだ。この時期の代表的な治水には、武田信玄が甲斐国釜無川流域に築いた信玄堤、豊臣秀吉による淀川沿いの文禄堤および伏見巨椋池の太閤堤などがある。また、濃尾平野などに見られる輪中堤も戦国時代もしくは室町時代後期に成立したとされている。
江戸時代(17世紀初頭 - 19世紀後期)に入ると、治水はより大規模化し、また広く普及していった。江戸時代に隆盛した大規模な治水技術は、治水の手法などによって、甲州流・美濃流・上方流・関東流(伊奈流)・紀州流などと呼ばれた。江戸時代に顕著に見られる大規模治水は、河川の付け替え(瀬替え)である。古くは1605年(慶長10)、矢作川の瀬替えに始まり、17世紀前期 - 中期にかけては利根川・渡良瀬川の流路を江戸湾方向から東の鬼怒川→銚子方向へと瀬替えする利根川東遷事業という大事業が行われた。1704年(宝永1)には、河内平野住民の永年の悲願であった大和川南遷事業が完成した。木曽川など濃尾三川の水害に悩まされていた濃尾平野では、18世紀中期、幕府の命令により薩摩藩が三川の流路を固定化する築堤治水事業に取り組み、様々な困難の末に完成させた(宝暦治水)。これらの瀬替え・治水事業はいずれも洪水が多発する河川の流路を安定化し、水害の危険を軽減するとともに、流域における耕地開発を促進するものであった。
現存する農書、地方書からは、江戸時代における治水の変遷を見ることができる。江戸前期には、まだ連続堤は稀であり、堤防を雁行形に配置する霞堤や、低い堤防を二重に築く二重堤が主流であった。無理に堤外に洪水流を留めると、破堤の危険がまし、かえって被害が増大するが、霞堤や二重堤は、ある程度の溢流を許す構造になっており、溢水が浅く緩やかに流れ、被害を最小限にとどめる工夫がなされている。江戸中期から連続堤が多く見られるようになるが、所々には洪水時に越水できる箇所が設けられ(越水堤)、霞堤や二重堤と同じくゆるやかな溢水が生じるように造られ、溢水しやすい土地では年貢が減免されるなどの措置が採られていた。江戸時代前半に主流だった治水が、関東流と呼ばれた治水法で、ある程度の溢水を認めることを基本とし、堤防は高く造らず、河川幅を広くとり緩やかに蛇行させ、溢水する箇所には遊水池を設ける方策を旨としていた。
江戸時代後半になると、河川を直線化し、強固な堤防によって流路を固定し、遊水池は設けず代わりに氾濫原を新田として開発する紀州流の治水が主流となっていった。これにより、洪水の発生を抑制することはできたが、河道に土砂が堆積し天井川となりやすくなったため、定期的に河道浚渫を行う必要が生じ、その地域の大きな負担となった。
明治時代になると、新政府は、ヨーロッパの治水先進国だったオランダからコルネリス・ファン・ドールンやヨハニス・デ・レーケらに代表される治水技術者を招聘し、近代的な治水技術の摂取に努めた。デ・レーケが常願寺川を見て言ったとされる「これは川ではない。滝だ。」という言葉は、日本の河川の特殊性・治水の困難性を表すものとして知られている。オランダ人技術者がもたらした治水は、河道に水制を設けて流路の安定を図り、河床を掘削して流量を確保することを基本とする低水治水であった。併せて、組み合わせた樹枝に基礎捨石を配し、その上に土で固めた堤防を建設するオランダ築堤も採用された。彼らの指導のもとで、濃尾三川の治水事業などが行われ、オランダ治水技術は長らく日本の近代治水の模範とされた。
オランダから移入された低水治水のみでは、洪水被害を抑えるのが困難であることが次第に判明したため、1896年(明治29)に制定された河川法は、洪水時の河水を河道内に押しとどめ、一刻も早く海へ流下させることを原則とし、水系一貫方式の治水を採用した。以後、河道を直線化し高い堤防をめぐらし(高水治水)、放水路で河水を海へ流下しやすくする河川事業が主流となり、大河津分水の開削、新淀川放水路の建設、石狩川短絡事業といった大規模な河川治水事業が19世紀末 - 20世紀前期に相次いで実施された。昭和期に入ると、アメリカのテネシー川流域開発事業の影響を受け、河川総合開発事業に基づく多目的ダム・治水ダムの建設が始まった。
第二次世界大戦直後の10数年間は、カスリーン台風などの大水害が立て続けに発生し、国民経済に少なからぬ影響を与えたが、並行して行われてきた治水事業の効果によって、1970年代以降、大規模な水災害は著しく減少した。そうした中で、1980年代頃から洪水防止に傾倒しすぎた河川づくりや自然環境に一定の負荷を与えるダム建設に対する批判的な意見が出され始め、一方、大都市圏への過度な集中に伴う、都市水害の増加が新たな治水の課題として浮上した。1990年代からは、近自然的な治水工法が導入されるとともに、ハード(構造物)だけに頼らないソフト面での治水対策も次第に重視されつつある。同時に、都市における治水対策が急速に進展するなど、日本の治水は新たな局面を迎えようとしている。