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武田を金で封じ込めた景勝方は

武田を金で封じ込めた景勝方は、背後を気にする必要がなくなった。同盟締結の12日(16日)には長尾景明を討ち取って直峰城を奪取し、春日山城と景勝の本城であった坂戸城の連絡が可能となった。逆に景虎方は景明討死の翌6月13日(17日)には上杉景信を討ち取られ、日に日に形勢が不利となっていった。景勝方は勢いに乗り、中越地方の景虎方の諸城への圧迫を強めていった。形勢を見ていた勝頼は、春日山城近辺まで進撃しつつ景勝との和議交渉を本格化させ、6月29日(8月2日)に和議が成立した。

勝頼は景勝・景虎双方にも和睦を提案し、8月ごろにはいったん和議が成立したもののすぐ破談となった。しかし勝頼からすれば手出しできないもどかしさはあろうとも、とりあえず金と景勝との和議という果実を手に8月28日(9月29日)に撤兵した。9月に入ると氏政がようやく本腰となり、北条氏照・氏邦が氏政の命を受け越後に向けて進軍を開始した。小田原北条勢は三国峠を越えて坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手した。景勝方はよく守り、また冬が近づいてきたこともあって、小田原北条勢は樺沢城に氏邦、高広らを置き、景広を遊軍として残置し撤退した。

春日山城下を撤退した武田勢はこの頃、春日山城・御館と坂戸城の間を当てどなく徘徊していただけであったが、結果的に景虎方・小田原北条勢に対する抑止力となった。10月に入ると、景虎方では御館を初めとして兵糧の窮乏が相次いだ。いったんは兵糧搬入に成功し、春日山城を攻め立てたりもしたが、如何せん諸将との連絡が途切れがちなので勢いは知れたものであり、この状態で年を越すこととなった。なお、景勝は12月に勝頼の妹・菊姫と婚礼を挙げている。

外部勢力の干渉を巧みに排除し、家中の支持を集めた景勝は、改めて雪解け前の乱の収束を決心した。一方、景虎方は味方の相次ぐ離反や落城を止めることが出来ず、窮地に陥った。そして天正7年2月1日(1579年2月26日)、景勝は配下諸将に御館の景虎に対する総攻撃を命じた。早くも同日には景広を討ち取り、方々に火を放った。
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小田原北条勢の橋頭堡であった樺沢城も景勝方に奪回された。雪に阻まれて北条勢からの救援も望めず、3月17日(4月12日)には謙信の養父である上杉憲政が御館から脱出し、和議を求めて景虎の長子・道満丸を連れて景勝の陣に出頭する途中で景勝方に包囲され、道満丸もろとも殺害された。御館は放火され落城し、景虎は御館を脱出して逃亡中、鮫ヶ尾城に寄ったところを景勝方に寝返った城主堀江宗親に攻められ、24日(19日)に自害した。

越後を二分した内乱は景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となったが、最後まで抵抗した本庄秀綱や神余親綱らを攻めて最終的に乱が収束したのは、それから1年余り経った天正8年(1580年)のことであった。

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2009年06月06日 07:25に投稿されたエントリーのページです。

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